はじめに
神棚アプリを開発する上で、アプリの使い方やイメージはご利用いただく皆様にお任せしたいと思っており、できれば想像できる幅が大きければそのほうが良いと考えています。
とはいえ何も言わないでいるというのも、(言葉を選ばなければ)”不気味”と言えますので、ある程度は発信したいと思います。
ただそれによって私の考え方を強要したり使い方を決めたりする意図はございません。
もしかしたらアプリや開発者に対して期待していたようなイメージと違うかもしれませんが、何卒ご了承ください。それは今日の今日まで発信してこなかった私に落ち度があります。
はっきりすることを避けていた
最近、神棚アプリのことを端的にどう説明すべきかと考えていました。今まで何度かそういうシーンはあったもののちゃんと考えてはいませんでした、というよりも、”受け取り方は自由なのだ”と言い張って考えることをしなかったというほうが近いかもしれません。
自由であるなら文字通り自由です。宗教でも正解、スピリチュアルでも正解、育成ゲームでも正解で認知行動療法的なアプリでも正解かもしれません。事実、みなさま思い思いにアプリを使っていただけていて、私はとても嬉しく思います。
どれも否定しないものの、開発者本人の中では「不正解とは言わないがこれは明確に避ける」という強い意志のあるものがいくつかあるのも事実です。
ご利用頂いている方は既に存じているとは思いますが、脅してなにかを引き出そうとしたり、健康についてこれをすれば何か治ると助言するといったことはしません。
それを踏まえて「だとしたら何ですか」と自分自身に問いかけたとき、即答できないのも好ましくないと考えていました。
ビジョンの策定
それで、いろいろ調べたり考えたり整理した結果として、「日常に祈りと感謝を届け、心の安らぎと幸福を育む」というビジョンを掲げることにしました。どこに向かっているのか自分でわからなくなるためです。
そこに至るまでの間に宗教とかスピリチュアルとか認知行動療法とかとか、神棚アプリをそれらのどこに寄せていけばいいのだろうとも考えてきましたが、どこにも寄せられずに結果として「信仰」を軸にして考えを整理しました。
特に参考になったのは「祭祀と供犠」という生贄に関する事柄を日本内外で比較した本です。ただし著者が本書で言わんとするところとは違うところです。
日本の伝記にはこんな話がよくあるそうです。毎年怪物に人を生贄に捧げる村があり、若い女性が生贄に選ばれ悲しんでいたところに他所から旅人*1がやってきて、怪物を退治して女性を娶る、という物語。
きっと当時の村では生贄の犠牲があることは正しいことだったと思います。ゆえに「今年からはやめようよ」なんて主張など当然通るはずもありません。しかも女性は結局村のために怪物か旅人かのどちらかと付き合わされます。
現代のコンプライアンス観点は別として*2、祭壇で生きたまま人が屠られることはやっぱり誰にとっても幸せではなくて、自分たちの常識や文化や考え方など様々な側面において生じる矛盾は、文化や価値観など融合して時を経て、結果として「正しさ」よりも「幸福」という価値観を優先して解決し、それに至ったモデルケースを人々に語り継がれるまで周知徹底したと私は勝手に思いました。
伝承ですので長い映画のように登場人物の心の葛藤シーンは描かれませんが、人々の間にはそれなり長い年月に渡る矛盾と摩擦はあったと想像します。そうした中で幸福という北極星を目指して現実と折り合いをつけて考え方を変えていくところに「信仰」が偏在していたのだろうと考えます。
自身が置かれた環境における矛盾とそれに対する信仰という解決策は、神棚アプリを開発する上でいつも念頭にある考えでした。
そして信仰の目的とそう在るべく行うことを整理したうえで、神棚アプリは何を目指すのかを表現した結果、目指す姿を「日常に祈りと感謝を届け、心の安らぎと幸福を育む」にしました。
信仰と開発者
それで話を終わりにしたら、「しました、って後から言われてもなぁ..」という話になると思います。
なので、その背景として私の話を少しさせてください。
信仰に対する疑心
私は家族が不仲な環境で生まれ育ちました。私の世代としてはありふれた話です。
アパートの一室における歪な家父長制の体裁によって追い詰められた母親は、ある宗教家に助言を求めることになりました。
その宗教家は、"住んでいるアパートの下には古墳が埋まっており、その上にアパートを建てたことでそこに住むあなたらは祟られているのだ"としました。日本では高度経済成長期以降、宅地造成で多くの古墳が姿を変えましたので納得感のある話です。
当時私は5,6歳程度でそんなことは知らず、なにより頭が良くありませんので、大家さんは祟られないか、隣室のペルーから来た4人家族や2階のスポーツカーに乗るお兄さんは大丈夫か、本気で心配になりました。
私はどうしても心配で心配で堪らず、古墳の埋葬者に直接謝って許してもらおうと思い立ち園芸用のスコップを片手にアパートの基礎部分を掘り始めました。
5cmほど掘ったところで「家が倒れるからやめなさい」と母親に叱られました。その後、古墳については何の進展もありません。
宗教家の教えに従ってもなお家族の状況が一向に良くならないことには、幼い私でも信仰に対する疑念を抱かざるを得なくなります。
すなわち残念ながら否定的な考えを持ってその後を過ごすことになります。
そして信仰
二十代半ば、私はソフトウェア開発の仕事で過労と精神的な不調に苦しんでいました。
無理に解決しようとした結果、さらに大きな問題を抱えてしまい辛い日々を過ごしました。
そうして時間だけが過ぎてしばらくしたあるとき、気付けば心のわだかまりが消えて前に進めるようになっていました。
一体どうしてそうなったのか原因が理解できず、そのことにもまた苦しみました。
ソフトウェア開発が日常のほとんどであったことから、すべての問題には必ず原因があり、それを特定しかつ”納得の行く説明”ができなければならないと考えていたためです*3。
しばらくしてようやく私は気付きました。
解決したプロセスには、神社や神棚、あるいは仏前で行うことと共通点がありました。それは宗教行事とまではいかなくとも、静かに手を合わせて祈り、日々感謝をして過ごすといった日常的な文化として根付いていることでした。それがあまりに普通過ぎて、あるいは多義的で曖昧で、理屈では納得の行くものではないために気付けなかったのです。
幼い頃から懐疑的に見ていた信仰は、私がそのように考えていたにも関わらず苦しむ私に手を差し伸べてくれていたことに気付きました。
それと同時に、様々な信仰が存在していること、例えば信仰とは特定の宗教に従属するものではなく会社の風土に由来する信仰もあること、そして私には信仰を選択する自由があることにも気付きました。
この経験は今の神棚アプリを形作りました。
これは何だとはっきりしなかったのは、こうした選択の自由と選択できるからこその相対する”信仰”への敬意と畏怖があったためと思います。それらはあるときは必要で、あるときは害になり、またあるときは命に関わり、あるいは財産になるようなものです。
これから
神棚アプリは、ビジョンを確かなものとするために、心理学や精神医療で証明された知見を取り入れ、多くの人々の日常に祈りと感謝を届け、長期的な心の安らぎと幸福を育みます。
今はそれが機能としてうまく表現できていないところもあって改善の余地は大いにありますが、一つ一つ着実に、時々大きくジャンプして進めて参ります。
*1: 僧侶。即ち古代の信仰に対する外来文化のことです。
*2: 日本は見立ての文化があり、そもそも女性は実在なのか比喩なのかわかりません。
*3: 他人から見ればやめればいいのにの一言かもしれませんが、その集団で信じるところがそれであり異を唱えることはリスクを伴います。ただの人間関係そのものだと思います。